ケン・ローチ監督作品と構造化された格差社会メモ(2)

2021年5月8日土曜日

UK



ケン・ローチ監督の2019年に公開された「家族を想うとき(原題:Sorry We Missed You)はイングランド北部の郊外の街が舞台である。ここですでに嫌な予感がする。

主人公は二人の子を持つ父親で、労働契約を結ばない個人事業主として荷物の配達員となる。個人事業主なので車や経費は自分が負担する。そして出来高払いである。働き始める際にすでに配達用バンの購入で借金を負う。下請けなので欠勤やあらゆるミスは配送会社からペナルティが科される。もちろんその日の収入もゼロである。ちなみに配達員皆が同じような条件で働かされている。幾つかミスが重なるともう仕事がなくなる。解雇のようなものだが労働法上の解雇ではない。
もちろん主人公は借金を返済しつつ、生活をする展望を抱くし、見せかけでは可能である。
しかし、現実はそうならない仕組みになっている。働けば働くほどどんどん状況が悪化するギグワークの蟻地獄の様を描いた映画になっている。

さて、一度映画から離れてロンドンの生活について思い出してみたいと思う。
ロンドンは私の住んでいた頃、Brexit前夜は、恐ろしく物価が上がっていて、とんでもない社会になっていた。家賃はべらぼうに高く、外食や少しの娯楽にトンでもない出費をしていた記憶がある。30代前半のArchitectの給料では一人暮らしはできないので同僚はシェアで暮らしていた。しかしながら、この暮らしを謳歌できる層(金融業界など)がいるからこそのこの社会なのであって、その格差は感覚的には東京より断然に大きかった。眩い繁華街の高級レストランにバー。その世界に壁一つ隔てて暮らす労働者階級や移民たち。移民の友人達は学位がなんだ経験がなんだで移民が働くと期待された職(主にサービス業)で働いている人が多かった。ホワイトカラーの仕事ですら、大卒移民用の最低賃金レベルの求人も少なくなかった。

さて、ロンドンですらこの有様で、このロンドンという裕福な層から一番見捨てられていたのは他でもないイギリスの地方都市である。仕事がない、家がない、健康状態が良くないのに助けがない。状況が上向く気配がないと絶望感を抱いていたのは地方都市で、文字通り見捨てられていた。
北部、スコットランドのGlasgowには一部に限界経済と呼ばれている地域があり、平均寿命が60歳以下になる地域も存在する。原因は貧困だ。街を歩けば多くのホームレス支援団体を見つけることができるし、空きビルにはホームレスを入れて欲しいというキャンペーンのポスターが貼ってある。ロンドンは富が有り余るほど潤っているのに地方は見捨てられ、追い詰められているのが現在のイギリスである。
この北部スコットランドの近くに今回の映画の舞台がある。嫌な予感はここからきている。

ここで前回書いた労働運動を思い出してみる。
最低限の労働者の権利、差別を撤廃し公平な業界に改善していくよう求める運動。
それらはこれらの地方都市にとっては何か非現実的なうわついた言葉のように聞こえないか。
絶対的正義を求める知識層の言葉はこの限界社会で何を意味するのだろうか。
ギグワークが悪いのだろう、でも見捨てられた地方都市の労働者階級の生活とはそれ自体が蟻地獄の構造になってはいないだろうか。

映画に戻ると主人公は家族と一悶着ありつつも、自分が強盗に襲われ、大怪我をしたところで家族の絆が少し深まる。そんな状況で絆が深まること自体絶望的であるが、襲撃された次の日、病院の検査結果も出ないまま早朝配達用のバンに乗り込む。家族は皆外に出てきて引き止めるのだがそれを振り払い、出発する。
このシーンが一番辛く、そしてこの絶望的な状況を端的に示している。ここで出勤しなければここまで絶望的な映画にはならなかったのかもしれないが、ここで出勤しないというシナリオはおとぎ話なのだ。とても非現実的で、あり得ない設定だ。これが彼らの日常であり、まだこの日常は続いていく。
さて私はもう一つの自分の立場を考える。先ほどまで留学からの現地就職で労働者の権利だのを自覚していなかった話していたが、それはまたイギリス社会では空虚な話だった。単なるお客さま的視点は拭い切れていなかったのかもしれない。
日々を生きるのに労働者の権利を疑う余地なんて残されていない。そんなのはロンドンのエリートが話す話題。そこまでイギリスの状況はハードなのだった。

一説にはBrexitはつまるところ、ロンドンと見放された地方の戦いの場であったという。
だからたいして移民が多くもない地域でEU離脱支持者が多かった。ギリシャとドイツのEU内経済的いざこざの時も勝ち目がない状況でギリシャがドイツに対してOxi, Noと言い続けていた。彼らの主体性みたいなものがあるとするならば、それを示し続けたい。うまい汁を吸ってうまくいっている者に服従されるのは嫌だ、という強い意識の現れか。

いずれにせよ、私のようなお客様はお呼びでない。
海外移住して外国社会の一部になるということは案外難しい。

*次回は現在読書中の関連本、オーウェン・ハサリーの緊縮のノスタルジアの書評が目標
いつの間に文化系blogになったのか。




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