本と旅するアメリカの<周縁> -ニューメキシコ編-

2021年10月15日金曜日

Arch+Urban Travel US US life



本との出会い、アメリカの周辺

私にとってアメリカはニューヨークであり、長らくそれ以外のアメリカには一生行く機会はないだろうと思っていた。だから今回のアメリカ訪問は具体的なイメージや期待が思い浮かばず、楽しみなのか、あまり楽しみではないのかよくわからない心境だった。せっかく行くのだから楽しみたいと思っていたところ、本屋で面白そうな新刊の本を見つけた。

「アメリカの<周縁>を歩く -旅する人類学- 」中村寛、松尾眞・著、平凡社

である。素敵な写真の表紙は本屋で異彩を放っていた。中をみるとアメリカ郊外の人間味が滲み出つつも少し寂しげな味のある写真が幾つも掲載されていて、今回わたしの見るべきアメリカとは郊外の生活とその人間味あふれるストーリーなのかもしれないと思い、衝動買いしてしまった。その時に具体的にどの地域のことなのか確認しなかったし、確認したところで当時の私の浅はかな知識では見当もつかなかった。

ところで簡単にこの本を説明すると、文化人類学者である中村寛氏と映像作家である松尾眞氏の行き当たりばったりのアメリカの<周縁>部の旅の記録であり、エスノグラフィーである。本文中にも紹介があるのだが、中村寛氏は長年ニューヨークにてアフリカン・アメリカンの文化についてフィールドワークをされていたのだが、この旅は番外編で、アメリカで同じく周縁に追いやられているネイティブ・アメリカンを訪ねに行き、生活を見聞きすることが旅の前提である。しかしそれはあくまでうっすらとした目的でありネイティブ・アメリカンだけではなく、同じ地域に暮らすあらゆる人々と会い、会話し、時間を共にした記録がこの本に記されている。

さて、読み始めると一体どこだかわからないけれど(もちろん地名は書いてある)、著者たちがネイティブアメリカンの大規模アート・マーケットに向かうところからスタートする。行く途中で出会ったネイティブアメリカンのグループにそのマーケットはおすすめ出来ないとアドバイスされたり、予想外にそのグループの中の一人と大部分の時間を一緒に過ごすことになったりしていた。本にも目的がないので行ったりきたり、時間軸上に進む旅の記録を淡々と読む経験がそれはそれは想像上のアメリカの郊外の生活感と重なり、楽しかった。読んでいる途中で渡航の日が来てしまい、とりあえずアメリカに向かった。

アメリカに着くととんとん拍子で急にニューメキシコへショート・トリップすることが決まった。あれ、待てよ、ニューメキシコはこの本に書いてある場所かもしれない。ここから本と実際の旅がシンクロし始めた。私が来た場所はアメリカの<周縁>だったのだ。


旅の始まり、タオス

まずはニューメキシコ北部でコロラドに比較的近いタオスを目指すことになった。ニューメキシコは意外にも標高が高く、サンタフェは全米の州都で最も標高の高い場所である。そのため旅路もとにかく山に囲まれた風景が多くなる。

タオスに寄る前に幾つかの街を経由したのだが、その中でも最も登山的な経験をしたのがサウスパークのちょっとした小さな街であった。余談だが、一時期アニメ、サウスパークにハマっていた時期があり、ニューヨークで実際のテレビで見て感動したのだが、その舞台がサウスパークである。休憩のためにカフェに寄ったのだが、初めて気圧のせいで飲み物の味がわからない経験をした。ダイエットコーラを飲みながら、何これまずい、古いの売ってるのかしら?と不満を言っていたのだがまさか標高が原因とは。このサウスパークの小さなカフェは辺境の香りがした初めての地。


西部開拓時代は現実にあったんだと思わせる街並み

そして更に南下するとニューメキシコとコロラドの境界の街、アラモサにたどり着いた。いかにもなアメリカのダウンタウンという感じの古めかしい映画館やダイナーが光り輝いていたのだが、街には全く覇気が感じられなかった。この小さな街の人々はどんな暮らしをしているのだろう。さびれた街の給水塔を見ながら、似たような写真が本に載っていることを思い出す。あれはテキサスだった。


アラモサのダウンタウン

アラモサから先を急ぎ、タオスへ向かう直前に大きな峡谷が現れた。見たこともないスケールの自然だったので車を降りて景色を見る。リオ・グランデという有名なメキシコとアメリカの国境を流れる川があり、この付近はリオ・グランデ・ゴージ・トレイルというハイキングコースになっている。向こう側に峡谷を渡る橋が見えるのだが、これがとんでもない橋なのだ。しかも今からこれを渡ってタオスに行くらしい。先に横から橋の全貌を見てしまうと渡るのに躊躇してしまう橋だ。その名をリオ・グランデ・ゴージブリッジという。その場で異常に怖がっていたのは私だけだったのだが、その後本を読むと著者の二人も目眩がするほどの恐怖心を抱きながらこの橋を渡ったらしい。

恐怖のゴージブリッジ

トレイル。スピリチャルな感じもする。

日が暮れ、夜になってしまった後にタオスに辿り着いた。中心部と言われる場所にたどり着いたのだが、プラザに人も少なく、暗い場所だった。ただ、アラモサの辺りから徐々に増えていったアドービの黄土色の建物で街全体が構成されていたので別の文化圏に侵入したということは明確だった。

まだ夕飯を食べていなかったので食堂が閉まる前に近くのメキシカンレストランへ。ファストフードのメキシコ料理しか食べたことがなかったので、レストランで食べるメキシコ料理が想像以上に美味しくて腰を抜かした。ソースが味わい深いのだ。大学生ぐらいのメキシコ系のスタッフも、とても優しくて緊張していたアメリカでの日々の中でやっと心の安らぎを得た。タオスがメキシコ文化との初めての出会いだった。

ニューメキシコという名前、そしてメキシコ料理店の数々を見ているとなんの予備知識のない私には、この街でメキシコ文化に触れることが旅の大きなミッションに思えてくるのだが、実はそこではないと本を読みながら徐々に理解してくるようになった。宿にチェックインして明日の予定を考えていたのだが、調べるとタオス・プエブロはパンデミックの影響で観光客には開かれていなかった。プエブロとは伝統的な先住民族の集落で、タオス・プエブロは特に有名で世界遺産にもなっている。普段は観光客に開かれた部分があり、ガイドツアーで説明を聞くこともできるらしい。実はガイドブックや周縁の本が教えてくれただけではない、この街ではホテルやレストランなど至るところでタオス・プエブロの絵が飾られていてこの地域におけるプエブロ文化の重要性は感覚的に伝わってくる。

タオスの街角

結局アドービ煉瓦建築で有名なサン・フランシスコ・デ・アシッジ・ミッション教会へ行くことにした。教会はアドービ煉瓦のスペイン植民地スタイルで、1700-1800年代初頭に建てられた頃、この場所はメキシコ人とネイティブ・アメリカンの小さなコミュニティの中心地だった。

ジョージア・オキーフをはじめ多くの画家によって描かれた教会でもあり、タオス・プエブロに並んでタオスでよく見る絵のモチーフの一つであった。構造上開口が少ない、ずんぐりむっくりの厚い壁の躯体に丸太の木造の屋根構造が印象的である。建てられたのは18世紀から19世紀なのだが、それにしては原初的な構成に見える。




その後はTaos Art Museum at Fechin Houseへ。モダニスズムとプエブロスタイルの建物を融合させたような印象的な建物はもともとロシア出身のアーティスト、ニコライ・フェチンが住んでいた家だった。この美術館ではフェチンの作品だけではなく、タオス芸術家協会のメンバーの作品も展示されている。興味深いのは多くの作品がタオスの自然とタオスのネイティブ・アメリカンの生活をテーマにしており、やはりここでもタオス・プエブロをモチーフにした作品を見ることができる。しかもフェチンはタオス・プエブロと交流をしており、家の建築にはタオス・プエブロの人々が協力したらしい。秘伝のプエブロスタイルの技術が各所で見られる。

フェチンの家

朝食を食べたカフェ

ここまで来ると、ネイティブ・アメリカンの文化が息づく場所としてのニューメキシコという視点に変わりつつある自分がいた。そしてネイティブアメリカン文化を追って旅した「アメリカの<周縁>をあるく」はまさにうってつけの本だった。

サンタフェで本とシンクロする


ところでニューメキシコを旅していると、プエブロ文化とネイティブアメリカンをテーマにした絵やアートに強固な結びつきがあることがわかる。前述したようにあらゆる場所でネイティブ・アメリカンの生活をモチーフにした絵が飾られているし、多くのアーティストがこのテーマで制作をしている。これは先のフェチンやその他の部外者だけではない、ネイティブ・アメリカンの人々もアートやジュエリーを作ってギャラリーなどで売っていて、タオスにもいくつもそうした作品を扱うギャラリーがあった。街の中心部の観光客が集まるエリアなどは特に多いのでどうしてもその存在の大きさに気づいてしまう。

(「アメリカの<周縁>をあるく」でも出会うネイティブアメリカンの人々は手作りのアートやジュエリー、お土産用のものを売っていることが多い。店を構えているから話しかけやすいという理由もあるかもしれない。)

このネイティブアメリカンアートの最大のイベントが本にもある年に一度、サンタフェで開催されるインディアン・マーケットである。

実はこの旅の出発前にサンタフェの宿が高騰していることに悩まされていた。本当はサンタフェに行きたいけれど、ホテルがどこもいつもより高いのでタオスまで行って帰ろうかという話をしていた。けれどもタオスを巡ったのち、どうしてもサンタフェに寄りたくなったので一泊してサンタフェに行くことにした。

サンタフェに着くとある異変に気づく。とにかく車の入れる場所が規制されていて、街がなんだか浮かれている。聞くとやはりあの、年に一度のインディアン・マーケットの開催前日だったのだ。本に書かれている通り、このマーケットの商業的な側面は非常に強く、タオスの観光客へ向けたギャラリーとは比べものにならなかった。開催前日だけあって現代美術ギャラリーのように特別なオープニングイベントがあちこちのネイティブアメリカンアートギャラリーで開催され、多くの富裕層の人々がワインを片手に道に広がって談笑している。中心部ではアメリカ各地からやってきたネイティブ・アメリカンのグループがマーケットの準備をして忙しなく働いていた。案内をしている方に聞くとパンデミックで昨年のマーケットが中止されたので二年ぶりなのだという。カタログをもらって見てみるととにかくファッションブランドの広告のようなラグジュアリーな雰囲気で、まさに富裕層向けのイベントなのだと伝わってくる。

浮かれる観光客

恒例のメキシコ料理店で昼食を食べたのち、街を散歩しながら本にもあった現代ネイティブアート美術館に立ち寄った。ここは著者二人が長い時間を一緒に過ごしたチャンプというネイティブアメリカンの男性の娘のディージャが学んでいたアメリカン・インディアンアート大学の系列施設で、やはりここでも大きな展覧会のオープニングイベントが開かれていた。今回の展覧会のテーマは「Explosion (爆発)」で、ネイティブ・アメリカンだけではなく、オーストラリアなど世界各国の先住民のアーティストが招かれて参加していた。日本からもアイヌ出身のアーティストが2名参加していた。展示のほとんどが原発や核関連のもので、世界初の原爆実験で有名なニューメキシコをはじめ、兵器の実験の場所や原子力発電所などリスクの伴う施設の設置に軽視されがちな先住民の土地が選ばれやすいという問題を共有している。現代美術という縛りがあるのでマーケットで見るようなよくありがちなインディアンアートとは異なる雰囲気で、ミニマリストな作品などもあったのが興味深かったが、美術館の性質上、政治的な展示になりやすいのかもしれない。ちなみに本によると当時の展覧会はアメリカン・インディアンアート大学50周年の展示で、十年ごとに10人の作家で合計50人の作家の作品を展示するというものだったようだ。とてもコンセプトの強い企画が特徴の美術館なのかもしれない。とても印象に残った。


エキシビション

少し残念に思ったのは、今回のニューメキシコ訪問ではあまり他のアジア人を見かけず、サンタフェのマーケットに来ている日本人観光客を数人見ただけだった。この展示のオープニングも例外ではなく日本人の作家が参加しているのに観客としては私一人だけがアジア人でその他のほとんどが白人かネイティブ・アメリカンの人々だった。美術館のスタッフがオープニングイベントの記録写真を撮っていたのだが、多様性のアクセントとして私が写真の被写体として協力することになった。まあ、本当に観客だったのでサクラではないのだがこの美術館の使命に対して民族的な偏りが強かったのは確かなので力になれて幸いである。そんな経験をしているとアメリカがいかに多様な民族と共存しつつも、問題があり続けたのかという複雑な社会の背景を思い知らさされるような感覚になった。

現代ネイティブアート美術館

マーケット中心部でのネイティブ・アメリカンの演奏


プエブロ・リバイバル建築に思う

サンタフェはアドービ煉瓦やアドービ煉瓦風の建物がほとんどで、典型的なアメリカの風景と全く異なり、どこか異国情緒漂う場所である。(私は個人的にはモロッコを思い出した。)実は理由は単純で規則で決まっているからということなのだが、それにしても街並みや個々の建物はとても興味深い。この規則の中ではプエブロスタイルかテリトリアルスタイルのどちらの様式を守らなくてはいけないのだが、近現代風なのがプエブロ・リバイバル建築とテリトリアルおよびテリトリアル・リバイバル建築である。特にテリトリアルスタイルは本当に不可思議で、いかにも赤煉瓦の西洋風建物の構成をしていて、さらに古代ギリシャ・オーダーの柱などが前面についているにもかかわらず、アドービ煉瓦と同じ黄土色に塗られている。プエブロ・リバイバルは近現代風にアレンジされた元々のネイティブ・アメリカンの住宅建築のような様式である。プエブロ・リバイバルは理解できるとしても、テリトリアル様式は西洋の権威的な建築を無理やりプエブロ建築に寄せていったのだが、権威の象徴のようなオーダーの柱などは残している表面上の妥協案にしか見えなかった。さらにこの規則を完全に無視している赤煉瓦の古い建物もちらほら残っていたために赤煉瓦の既存建築をただ塗っただけなのではという疑念が拭えなかった。現代で言うならば文化の盗用問題みたいなものに見えてしまった。

プエブロリバイバル様式

テリトリアルリバイバル様式

謎の無法者の赤煉瓦の建物

この二つの異なる様式は直感的に異なる文化の衝突の象徴のように思えたのだが、調べてみるとテリトリアルスタイルは当初からこの土地特有の建築との融合を基本に発展していったようである。もともとのテリトリアルスタイルは1860ごろからスペイン占領自体にアドービ煉瓦のプエブロ建築にギリシア様式の装飾などをつけるところから始まり、その後アングロ系コミュニティの到来によって更にアングロ系西洋建築に近くなったのだが、全てを煉瓦造にするにはコストも高かったために基本的にはアドービ煉瓦構造をアングロ系建築に寄せることしかできなかったようである。(なお、この時はやはり元来のアドービ建築は不快に思われていたようである。)テリトリアル・リバイバルは更にアングロ系西洋建築に寄った規模の大きなもので、当時(1930年ごろ)の建築家(John Gaw Meem)ができるだけメキシコやインディアンの様式を少なくしたいというクライアントからの要望に応える形で出来上がったものだそうだ。日本の近代建築における擬洋風建築のように不自然な文化の重なり具合がはじめの違和感の正体だった。

シアター風建築+アドービ風様式
次世代:現代建築+アドービ風様式

アドービ煉瓦の修復工事

それにしてもこのサンタフェの建築様式は激動のニューメキシコの歴史を象徴するような芸術の一つである。この建築についてあれこれ議論しているうちに次の日、ニューメキシコ歴史博物館に行くことに決めた。

次の日は短時間しか時間が取れなかったのだが、ニューメキシコ歴史博物館に行ってきた。キャプションを全て読む時間がなかったのだが、スペイン、メキシコ、ネイティブ・アメリカン、アメリカとの間にとにかく争いに次ぐ争いがあったことだけは理解ができた。ずっとこの争いに翻弄され続けたのはネイティブ・アメリカンたちで、時には侵略者側の兵士の一部になったりして振り回されてきたようだ。他にはサンタフェトレイルや鉄道工事などの写真が印象深かった。確かに当時のアメリカの鉄道工事を考えてみると想像を絶するほど人が必要だったのは間違いない。現在は車社会で廃線になっている鉄道も多いようなので勿体無い。

サンタフェの中心部に位置する総督邸は現在はニューメキシコ歴史博物館の一部になっている。スペイン占領時からプエブロの反乱を経てメキシコ、アメリカなど時々の首長が変わるがわる住んでいた不思議な建物である。前面は普段はネイティブアメリカンのマーケットになっている。もともと古い建物だったので、総督邸にも関わらず一時期は劣化も進み酷い状態で住人も健康を害していたらしい。この辺りはテリトリアルスタイルを改良したアングロ系入植者たちも当時のプエブロ建築を泥だらけと評しており、不快感を感じたと言われているのでやはり相当に衛生上良いものではなかったのだろう。リノベーションを経てプエブロスタイルが一気にビクトリア調になった総督邸の写真が展示されているのだが、がなかなか面白い。現在もだいぶリノベーションをされてい綺麗になっている。

総督邸前

ヴィクトリア調

窓が深いのは壁が厚いから

ヴィクトリア調インテリアの写真

あらゆる文化の交差点を旅した


サンタフェの街かど

サンタフェはある程度街並みが統制されており、土色の綺麗な街並みが魅力の観光都市として理解しやすいかもしれない。しかし実際は新旧、異文化の造形が入り乱れた街並みで建築から見るとむしろ多文化を強調しているように感じた。その中で出会ったインド系のモーテルのスタッフや、イギリス系ヒップスターカフェでだるそうに働く数人のネイティブアメリカンの若者たち、ローリー・アンダーソン似のご機嫌の現代美術センターのスタッフは今をこの土地で生きる更なる多様性の一部なのだろう。
さて、「アメリカの<周縁>をあるく」では”コミュニケーション(伝達) - 記録”の間を交互に行き来していた。ある一つの明確な物語ではなく、幾重にも重なり、異なるベクトルを持ったストーリーやオリジナルを失った伝達された物語を並列に扱っていた。これはこの本の旅の記録方法でもあり、ネイティブ・アメリカンたちの物語の伝達や彼らのコミュニティと外部とのコミュニケーションに必要な翻訳などにも通じる。私はこの本のように実際にネイティブアメリカンやスペイン語話者のコミュニティなどに接する機会はほとんどなかったが、私の言語の一つである建築から見ても土色の漆喰という共通点を除けばほとんどごちゃごちゃの街並みも”西洋建築的な強固な一つのストーリー(古典主義)= 占領者の文化のドミナント“とは片付けられない複雑な文化が入り乱れる歴史的背景を感じることができるし、現地に暮らす多様な人々が長年かけて作り上げてきた街並みのように感じる。例えばドイツのポツダムの復元プロジェクトなんかは(新)古典的な様式で街並みを再建したわけだが、ヨーロッパではトップダウンで一つの文化で街並みを作ることは可能であって、それを前提にするとサンタフェのような観光的な歴史的街並みが正直にあらゆる文化のミックスを体現しているのはとても興味深いし、これも一種の文化の伝達の結果だとみることができるかもしれない。それにしてもヨーロッパや日本では到底お目にかかれないダイナミックな文化の混合はとても人間味のある豊かな文化だった。

美しい中庭

マーケットで忙しなく働くネイティブアメリカンの人々

そしてこの本の旅と同じく、次の日、この不思議な場所を離れて大都市デンバーへ戻った。


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